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雲仙・普賢岳 大火砕流から20年

はじめに

地元消防団員や報道関係者ら犠牲者43人という未曾有の被害を出した平成3年(1991年)6月3日の雲仙・普賢岳大火砕流から今年で20年、島原市では犠牲者への追悼式とともに、災害の記憶を風化させず後世に教訓を語り継ぐための様々な行事が開催されました。雲仙・普賢岳の火山災害では6月3日の大火砕流のほか、平成5年(1993年)年6月23日の火砕流でも1人が死亡、計44人が犠牲となっています。

 島原市の島原復興アリーナで5年ぶりの島原市主催の犠牲者追悼式が開かれました。102人の遺族や消防団のほか、横田修一郎市長、中村法道知事ら約700人が参列し、午前10時過ぎ、参列者全員が黙祷し鎮魂の祈りをささげました。追悼式には火山学者として現地に入って死亡したフランス人のモーリス・クラフト夫妻や米国人ハリー・グリッケンさんの遺族も初めて参加しました。横田修一郎市長は「災害の記憶を風化させることなく、伝えるのが残された私達の役割である。困難な状況にある東日本大震災の被災地の方々には、必ず復興できることを伝えたい」と式辞を読み上げました。また、亡くなった消防団員を悼む慰霊碑の前でも追悼式が行われました。

  • 島原復興アリーナ

  • 島原復興アリーナ

 大火砕流が発生した午後4時8分。市内全域に防災行政無線でサイレンが鳴り響き、亡くなった消防団員が詰め所にしていた「北上木場農業研修所」(島原市上木場地区)跡や、報道関係者が撮影ポイントとしていた「定点」(同)などで、遺族や市民が一斉に黙祷をささげました。
このほか、「雲仙普賢岳噴火災害犠牲者追悼之碑」前(仁田団地第一公園内)での市民などによる献花や、夜には当時の記憶を次の世代に伝えようと、小学生が作った2000本のキャンドルが、島原市の雲仙岳災害記念館にともされました。

  • 北上木場農業研修所跡

  • 報道関係者が撮影ポイントとしていた「定点」

 6月4日(土)、島原半島3市・雲仙復興事務所・長崎県で構成する実行委(委員長・横田修一郎島原市長)主催の「災害・復興シンポジウム」が雲仙・普賢岳の噴火災害から20年の記念事業として島原復興アリーナで開催されました。市民や研究者ら約600人が会場に足を運び、東日本大震災被災地の復興支援の視点も交えながら、次代につなぐべき普賢岳災害の教訓などへのパネリストの提言に耳を傾けました。

 午前中の第1部「当時の体験と教訓を語る」では、高田勇・元知事が、日本で初めてとなる警戒区域設定に至る経緯や県としての災害対応などについて基調講演し、この後、鐘ケ江管一・元島原市長、石川嘉則・元深江町消防団長ら9人のパネリストが、体験をもとに、危機管理のあり方などについて災害で得た教訓を語りました。
 太田一也・九大名誉教授は、避難勧告を出しながら43人の犠牲者が出たことに触れ、マスメディアの当時の危機管理に甘さがあったことを強く指摘し、長期の災害出動を指揮した山口義広・元陸上自衛隊第16普通科連隊長は、火砕流の映像などの情報を市民にいち早く公開したことを紹介し、「迅速かつ的確な情報がパニックを未然に防ぐ」と語りました。

 午後の第2部では、島原、南島原、雲仙市の市長や有識者ら8人が「災害を風化させない」をテーマに討論。体験の継承や島原半島の将来について意見を交わしました。
 清水洋・九大地震火山観測研究センター長は「今回の東日本大震災では、東北のチリ地震津波を経験した人が『ここは大丈夫』と判断し、かえって避難を遅らせた」と、負の災害経験の危険性を指摘しました。
 高橋和雄・長崎大名誉教授は、体験の継承を絶やさない方法として「島原にある国、県、市、大学の諸施設を組み合わせた学術・防災の拠点作りを急ぐべき」と提案しました。
 田村圭司・国土交通省雲仙復興事務所長は、「砂防堰堤などの防災施設にも行政の能力にも限界がある」と述べ、「災害には想像を絶することが起きると考えて対応する必要がある」と普段からの心構えについて話しました。

  • 清水洋・九大地震火山観測研究センター長

  • 高橋和雄・長崎大名誉教授

  • 田村圭司・国土交通省雲仙復興事務所長

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