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土砂災害から
命を守る知識

土砂災害から命を守るために
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写真等の資料を防災教育や防災学習にご活用ください

大規模な自然災害が重なり、防災に対する国民的関心が、かつてないほど高まっています。 教育現場でも、義務教育課程において、いわゆる「防災教育」が本格的に始動しています。一層努めていくことが「私たちの使命」と考え、このページを開設しました。ウェブ副読本のほか、ここに集められている写真やイラスト類は、ご自由にお使いいただいて構いません。(※動画は適用外のためご相談ください)防災教育・防災学習の様々な場面で活用いただけることを願っております。

日本の砂防のあゆみ

砂防がはじまるまで

はじめに

   日本は土砂災害が多い国です。このため、土砂災害から人命や暮らしをまもるための「砂防」という技術が発展してきました。日本の砂防技術は、今では世界のいろいろな国々にも取り入れられて、その国の安全づくりに貢献(こうけん)しています。
 日本の砂防は、どのようにして始まり、どんな歴史をたどってきたのでしょうか。それをふりかえってみましょう。

今より森林が少なかった明治時代

   現在、日本の国土の約67パーセントは森林で占(し)められています。この数字は、例えば木材の輸出国として知られるカナダの森林率(国土に占める森林の割合)が49.5パーセント、アマゾンのジャングルがあるブラジルの森林率が57.3パーセントであるのに比べても、かなり多いように思われます(*数字はいずれも2000年のデータによります)。
 もっとも、これを国民1人あたりの森林面積に換算(かんさん)すると、カナダが16.9ヘクタール、ブラジルが3.17ヘクタールなのに対し、日本は0.2ヘクタールですから、決して多くはありません。確かに日本で都市やその周辺に暮らしていると、まわりの山はほとんど住宅地などになっていて、森林はかなり少ないと感じるのではないでしょうか。
 それならば、国土の開発が進む前、もっとむかしの日本ではどうだったのかというと、明治のはじめころの1人当たりの森林面積は約0.7ヘクタールで、現在の約3.5倍ありました。しかし、当時に比べて今は人口が約3.7倍に増えていますから、計算すると、森林全体の面積は、明治のはじめも今もそれほど変わらない、むしろ今のほうが少し多いということになります。

「とくしゃ地」が日本の近代化のさまたげに

   実は、明治のはじめころの日本には、草木のないあれた山が各地にたくさんありました。特に東海地方から中国地方にかけての西日本では、平地に近い里山の多くが、草木が育つための表土がなくなって、地はだがむきだしの、「とくしゃ地」とよばれる状態になっていました。
   とくしゃ地となった山からは雨のたびに土砂がけずられて流れ出し、土石流などもたびたび起きていました。また、流れ出た土砂が川底に積もったために天井川(川底が、周りの平野よりも高くなった川)になった川も多く、大雨が降ると川の水があふれて、下流の平地が水につかることもよくありました。
   明治時代になり、日本が世界の先進国に負けない豊かで強い国となっていくためには、土砂災害や水害をふせいで国土を安定させ、産業を発展させる必要がありました。こうして「砂防」が始まるのですが、その前に、なぜこのような草木のない山ができてしまったのかについて、少し説明しましょう。

人間の「暮らし」が木のない山を生み出した

   もちろん、こうした山のなかには自然のはたらきでできたものもあります。大雨や地震や火山活動などが原因で土砂がくずれ、表土が流されたために、木が生えなくなってしまった山というのも少なくありません。しかし、明治の初めころ、特に西日本で見られた草木のない山は、その多くが人間の自然へのはたらきかけが原因でできたものでした。
   電気もガスもないむかし、暮らしのための燃料は、おもに周辺の山からとってくる「たき木」でまかなっていました。日本の人口がまだ少なかった大むかしは、必要なだけ木を切っても森林はじゅうぶんありましたが、農業が発展して食糧(しょくりょう)生産が上がり人口が増えてくると、燃料としてのたき木の需要(じゅよう)も増えていきました。もちろん木は建築材料としても利用されたため、集落や都市が大きくなるにつれ、周囲の山の木はどんどん切られるようになりました。
   農業生産が上がり人口が増えると、さらに多くの食糧が必要になります。そこで、森林を切り開いて新たに田畑がつくられるようになりました。またむかしは、草や柴(しば=低木)などを堆肥(たいひ)にしたり、そのまま田畑の土に混ぜたりして肥料にしていましたが、この肥料用の草や柴、それに牧草をとるために、山の森林を焼いて(これを「山焼き」といいます)、草を育てることが全国で行われていました。山焼きでできた草山(草や低木だけが生えている山)は、草や木がまったくない山と同じく、大雨などで土砂がくずれることが多く、水害や土砂災害の原因になりました。

地場産業も山があれる原因に

   その地域ならではの産業によって、山があれてしまったところもあります。愛知県の北部や岐阜県の東部など、むかしから焼き物が盛んだった地方では、焼き物用の粘土(ねんど)をほり取ったために、山がくずれ、木が生えなくなってしまったところがありました。中国地方の山間部など古くから製鉄がおこなわれていたところでも、地層(ちそう)の中の鉄分の多い土をほるために山をくずしました。また、焼き物や製鉄は、その燃料として大量のたき木を消費しました。これは、瀬戸内海の沿岸(えんがん)で盛んに行われた製塩の場合も同じです。
   このほか、むかしから都が置かれてきた近畿地方では、宮殿や寺院をつくるために都から離れた「奥山」でも大木が伐採(ばっさい)されました。相次ぐ戦乱でも森林が焼けたり、「とりで」や武器をつくるのにたくさんの木が切られたりしました。
   このようにして木がなくなった山は、表土が流れやすくなり、養分の多い表土が流れてしまうと、植物はもう生えることができなくなります。特に、西日本に広く分布する花崗岩(かこうがん)の地質は、雨や風にさらされると、もろい砂になってしまう性質があります。西日本にどくしゃ地が多かったのには、この地域に早くから人が住んで都市ができ、産業が発展していたことのほかに、この地質条件も大きく影響(えいきょう)しています。