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学び伝える

土砂災害を防ぐ、備える、学ぶ、伝える
(防災教育と学習・防災訓練・報道向け資料)

写真等の資料を防災教育や防災学習にご活用ください

大規模な自然災害が重なり、防災に対する国民的関心が、かつてないほど高まっています。 教育現場でも、義務教育課程において、いわゆる「防災教育」が本格的に始動しています。一層努めていくことが「私たちの使命」と考え、このページを開設しました。ウェブ副読本のほか、ここに集められている写真やイラスト類は、右下の「資料等の提供について」をご熟読のうえ、お手続きいただければお使いいただいて構いません。(動画につきましては当センターの著作物ではないものも含まれますので右上のお問い合わせよりご相談ください。)防災教育・防災学習の様々な場面で活用いただけることを願っております。

日本の砂防のあゆみ

大正・昭和から現在へ

「農村匡救(きょうきゅう)事業」としておこなわれた砂防

   1914年(大正3年)にヨーロッパで第1次世界大戦が始まると、日本は、戦場となったヨーロッパの先進国に代わって、アジアやフリカの国々に工業製品(繊維・鉄鋼・機械・船など)を輸出するようになり、大きな利益を手にしました。この好景気(経済活動が活発で金まわりが良いこと)は公共事業にも影響(えいきょう)をおよぼし、砂防や治水の工事も順調に進められるようになりました。
   ところが1918年(大正7年)に戦争が終わり、ヨーロッパの国々が世界の市場にもどってくると、日本の輸出はふるわなくなりました。そして1920年(大正9年)、日本経済は「戦後の大恐慌(だいきょうこう)」とよばれる混乱状態(こんらんじょうたい)におちいりました。工業製品は売れなくなったため値段が急激(きゅうげき)に下がり、工場は生産をやめ、たくさんの会社が倒産したのです。その後も1923年(大正12)年の関東大震災、1927年(昭和2年)の金融恐慌(きんゆうきょうこう)、1929年(昭和4年)にアメリカから始まった世界恐慌など経済の混乱が続き、都市には失業者があふれました。農村でも、農産物の価格が大幅に下がったことや、生糸や絹製品の輸出がアメリカの不況の影響で落ちこんだことなどから、生活に困窮(こんきゅう)する農民が増えていきました。
   政府はこうした人々に仕事を与えるため、土木工事などの公共事業をおこなうことにしました。都市では失業対策事業として道路や下水道などの建設がおこなわれました。農村では「農村匡救事業(匡救とは「問題点をただし、こまっている人をすくう」という意味)」として、とくに砂防工事がおこなわれました。砂防工事はほかの土木工事にくらべて、工事のための土地を買ったりする費用が少なくてすむことや、労務費の割合が大きいこと、また工事費を広く市町村に分配できることなど、さまざまな利点があったからです。その結果、この時代、砂防事業のための国の予算は大幅に増え、全国各地で砂防工事がおこなわれることとなりました。

戦争で「ふりだし」にもどったとくしゃ地

   1937年(昭和12年)、日本は中国との戦争を始めました。1941年にはアメリカ・イギリス・オランダとの間の戦争(太平洋戦争)も始まり、日本は戦争に国のすべての力をかたむけるようになります。
   砂防事業も軍事的な目的が優先され、工事は「物資や兵士の輸送に欠かせない鉄道を土砂災害から守る」とか「川の下流にある軍事施設を水害から守る」といった名目でおこなわれるようになりました。また、昭和に入ったころ(1920年代のなかば)からコンクリートによる大型の砂防堰堤(さぼうえんてい)が建設されるようになっていましたが、戦争が長引いて建築資材が不足してくると、コンクリートや鉄に代わって、土・木材・竹なども砂防工事に使われるようになり、戦争末期には、それらの工事も中断してしまいました。
   一方で、「食糧増産(しょくりょうぞうさん)」の国の方針のもと、山林は切り開かれて畑に姿を変え、燃料不足から木は乱伐(らんばつ)されて、森林は再びあれていきました。
   1945年(昭和20年)に終戦を迎えたときの日本は、都市の多くが戦争で焼けたうえに、山はとくしゃ地が多く、川もあれはてているというひどい状態でした。その結果、戦後相次いで日本をおそった大型台風により、全国各地で水害や土砂災害が発生し、多くの人命が犠牲(ぎせい)になりました。

緑の回復と、砂防による国土の復興

   日本が敗戦(はいせん)から復興(ふっこう)していくためには、なによりも災害に強い国土づくりを急ぐ必要がありました。そこで戦後すぐの公共事業は治山治水(木を植えることによって山の状態を整え、水害をなくすこと)に重点が置かれ、全国各地であれた山に植林がおこなわれました。このころは建築用の木材も不足していたため、生長が早くて材木として価値の高いスギやヒノキなどの針葉樹(しんようじゅ)がおもに植えられました。こうして、日本の森林は急速に増えていきましたが、これには戦後、燃料が木から化石燃料(石炭や石油)に変化していったことも、大きく影響(えいきょう)していました。
   一方、中断していた砂防事業も、終戦後まもなく再開されました。1950年(昭和25年)にはアメリカの資金援助を受けて、国の砂防事業費は前の年の10倍近い増加となり、これによって全国の荒廃河川(こうはいかせん=土砂流出の多い川)で、砂防堰堤など砂防施設の整備が急激に進むことになりました。さらに戦後は、土砂災害防止のための法の整備も行われ、1958年(昭和33年)に地すべり対策のための「地すべり等防止法」、1969年(昭和44年)にがけくずれ対策のための「急傾斜地(きゅうけいしゃち)の崩壊(ほうかい)による災害の防止に関する法律」が制定されました。これらの法律は、1897年(明治30年)に制定された「砂防法」とあわせて、「砂防三法」とよばれ、現在も砂防事業を進めていくうえでの基本法となっています。
   このように、とくしゃ地から流出する土砂への対策として始まった日本の砂防は、きびしい日本の自然条件を反映して、試行錯誤(しこうさくご)を繰り返しながら独自の発展をとげ、国づくりをささえてきたのです。