4.特集
砂防の父・赤木正雄
矢野義男氏、「赤木正雄」を語る
赤木正雄氏は、晩年になるまで現場第一主義を貫き、精力的に全国各地を回った。そのため、同時代に生きた
砂防関係者は、ほとんどが多かれ少なかれ赤木氏の薫陶を受けている。だが、月日がたつにつれ、そうした直
接赤木氏の言動に接したことのある人びとも鬼籍に入られつつある。ここでは、京都帝国大学時代から長く赤
木氏の指導を受けてきた矢野義男砂防図書館長に、その思い出を語っていただき、伝説化されつつある赤木氏
の生身の姿に迫ってみた。
矢野義男
昭和13年、京都帝国大学農学部農林工学科卒。宮崎県、長野県勤務を経て、昭和30年建設省勤務となる。昭和36年、
河川局砂防部砂防課長。昭和37年河川局砂防部長。昭和41年退官後、全国治水砂防協会に勤務し、常務理事を経て
現在協会理事と砂防図書館長を兼ねる。農学博士。
将来を決めた、新渡戸稲造のひと言
赤木正雄氏が砂防を志したのは明治四十三年、第一高等学校在学中のこと。きっかけは、当時の校長、新渡戸稲造の訓話だった。新渡戸はご存じのとおり、札幌農学校でクラーク博士の薫陶を受け、明治を代表する教育家、農業経済学者として活躍した人物である。
「赤木先生が一高の学生のときに、夏休みに国に帰っていて、行李しょって東京へ帰ろうとしたら、大洪水で東海道線が不通になってたんですよ。それで、御殿場を回って東京にたどり着いたわけです、東海道線不通ですから。そのすぐあとに、校長だった新渡戸稲造先生が、その大洪水に引っかけましてね、諸君のうちに一人でも、日本の治水ということに献身する人が出てほしいっていうことを言われたわけですね。それに非常に感銘されましてね、結局砂防に一生をささげようという決心をして、それが終生変わらなかったわけです」(矢野義男砂防図書館長)
赤木氏の著書『砂防一路』(尅S国治水砂防協会発行)によれば、新渡戸校長の訓話とは次のようなものだった。「わが国は今回のように度々の水害で多くの人命を失い家を流し耕宅地を荒し莫大な被害を受ける有様である。(略)思うに治水は決してはなばなしい仕事ではない。極めて地味な働きである。しかし人生は表に立って活躍するばかりが決して最善ではない。よって誰か諸君のうち一人でも一生を治水に捧げて、毎年襲来するこの水害をなくすことに志を立てるものはないか」
この言葉が、赤木氏の一生を決めた。もっというなら、日本の砂防の未来を決めたといっても過言ではない。赤木氏は一高を卒業後東京帝国大学農学部林学科に進み、砂防への第一歩を踏み出した。
明治三十年、砂防法が公布され、日本の近代砂防事業は内務省所管でそのスタートを切っていた。しかし、内務省土木局には砂防を専攻した農学士は長く存在せず、久保田政周土木局長(当時)は日頃からできれば専門家を入れたいと考えていたという。赤木氏は同級生の多くが農林省や林業会社に就職するなか、内務省土木局を目指した。沖野技監が尋ねたのは「樹を植えることを教わったか」というもの。「教わった」と答えると即座に採用が決まった。大正三年のことである。
ひと度決心すると絶対に曲げない信念の人
最初、滋賀県栗太郡下田上、翌大正四年徳島県吉野川砂防工事事務所と現場を経験し、大正九年大阪土木出張所(淀川流域直轄砂防工事)に移った赤木氏は、同十二年一時休職してヨーロッパ留学の旅に出た。たびたび官費留学の申請を出したが入れられず、私費での旅となった。
「もともと、赤木先生の家は旧家でしてね。豊岡のほうでは、たいへんな有名な家なんです。そこで、豊岡から村岡にかけまして、非常に大きな山を持っておられたわけです。洋行するについて、私はもう何ももらわなくていいから、洋行費を出してくれと。で、洋行費を兄さんからもらって、それで三年間行ってきたわけですね」(矢野館長)
オーストリアの農科大学で砂防工学を学び、ドイツ語もかなり身についてきたころのこと、赤木氏は農科大学の教授とともに工事視察に出かけた。
「最初の視察地リリエンフェルドに行った時はヴィンター教授自らの案内であったが、私は日本から山地旅行のため予め持参した脚絆にゴム底足袋の旅装、それに小鞄を一つ持参した。われわれの汽車が駅に着くや砂防工事事務所の工夫が一人迎えに来ていたので、私は日本での視察旅行同様な考えから何気なく手にしていた鞄を工夫に託そうとしたところ、教授から『この工夫はわれわれを案内するために来たもので荷物を持ち運ぶためではない。砂防視察には自分の荷物は自ら持ち運ばねばならん』と注意されて、教授を見たところ最初からルックサックを担がれていた」(『砂防一路』)
日本では当たり前の習慣が、通用しないことを知ったのである。これだけなら、わずかに苦笑すればすむほどのエピソードだが、その後が尋常ではない。
「これが非常にこたえたとみえまして、一生それを守りましてね。内務省に帰って、地方に出張して来られて、みんなが荷物持ちますと言い出しても、絶対渡さないんです。砂防会館の外に銅像がありますけど、リュックサックしょってね、それでピッケルついて、登山靴で現場へ出ていくわけですよ。それで荷物は絶対渡さない。それは、ずーっとあと、参議院議員になられて、いわゆる政治家になられても荷物は絶対渡さないんですね。それほど、こたえたらしいですな(笑)。
なんていいますかな、いっぺんそういう決心をすると絶対に変えないという、非常に、明治の気骨があるわけです」(矢野館長)
また、この留学当時、恩師・新渡戸稲造が国際連盟事務局次長としてスイスのジュネーブにいた。そこを訪ねた赤木氏が新渡戸の訓話をきっかけとして砂防事業に身を投じたことを伝えると、新渡戸はいたく喜んだという。
方便として、他事業との合併施工を推進する
大正十四年に帰国。内務省土木局に復職し、以降常願寺川を皮切りに全国各地で砂防事業を手がけていく。
しかし、矢野館長によれば、当時の土木局全体の雰囲気は、砂防に対してあまり好意的なものではなかったらしい。デ=レーケら御雇外国人を招いて積極的に砂防事業を展開していた明治初期、河川は船舶の通路として内陸交通の要の地位にあった。砂防は航行に必要な水深を確保するためにも、必要不可欠のものだったのである。だが、鉄道の発達とともに河川交通の意味は急速に薄れ、治水事業の目的は災害の防止に絞られていく。そうなると、効果がわかりづらい砂防より、直接目に見える効果を生み出す河川堤防に、住民の要望も集まっていった。
そのような時代、およそ三百人の工学士の中に混じった一人の農学士は、まず予算の獲得に奔走しなければならなかった。
「赤木先生は、とにかくその、川を治めるには山を治めなきゃいけないという信念があるもんだから、これは絶対にがんばるわけです。と、困るんですよね、そういう信念があんまり固いと(笑)。内務省の土木局の工学士が三百人、農学士が一人。三百人を相手に一人でもって戦争をするわけです。砂防の予算が少ないと。昔は半々じゃなかったかと。もっと砂防予算を増やせと」(矢野館長)
予算獲得に大きな力となったのは、昭和七年から始まった農村匡救事業である。
不況下で疲弊していた農山村を救済するため、土木事業を起こして農民を雇用することを目的としたこの事業で、砂防は抜群の効率を発揮したのだ。砂防は他の土木工事と違って、多額な土地買収費がかからず、二割程度の工事材料費を除き、八割近くが賃金として山村農民にわたる。また、砂防事業を根付かせるために、潅漑用水や水道、発電用のダムなどとの兼用砂防ダムも積極的に推し進めた。
「結局赤木先生は、砂防予算を伸ばすということについては、もうなりふり構わずだったですよ。で、とにかくみんな砂防を知らないものですから、なんとかして砂防をわからせよう、それにはまず、砂防の効能というものを説こうと。
それで砂防ダムでもって、灌漑ダムと合併でやって、水を引くということもできます。それから、水道のダムと砂防ダムを合併でやって、それでたまった水は水道に引くということもできます。で、砂防としての務めも果たそうと。それから、当時は電気事業は各県でやってましてね、で、その発電ダムと砂防ダムを食い合わせると。そういう、えれえことをやってのけたわけですよ(笑)。
だから、水もためる、電気も起こす、それから灌漑用水も引く。これがみんな砂防でできますということで売り込んで、日本の県全部に砂防課を作らせようというのが念願だったんです」(矢野館長)
だが赤木氏にとって、これは本意ではなかった。あくまで予算獲得のため、砂防事業を広くPRするための方便だった。
「赤木先生のなかには、これは方便だというのが明確にあるわけだけれども、そのとおりにはどうも、赤木先生みたいには解釈しないわけですな、後輩どもが。それで、合併でやろうやろうって騒ぎ出したわけですよ。赤木先生は方便であってそれは砂防ではないということを、知ってるわけ。だから、賛成じゃないわけ、本心は」(矢野館長)
苦手な政治的活動をも厭わず、予算獲得に奔走する
ところが、赤木氏としては不本意であったかもしれないこの「合併施工」は、そのあまりに実質的な効果により熱い支持を受けることになる。農村匡救事業は三年で打ち切られる予定であったため、いまだ疲弊癒えない長野県や愛知県から継続の運動が起こったのだ。そしてこの運動が、現在の全国治水砂防協会の母体となった。
農村匡救事業による砂防事業の継続を陳情に来た長野県の県会議員団に、赤木氏は砂防予算獲得のための運動団体の必要性を説き、昭和十年長野県支部を皮切りに協会が発足したのである。最初の事務所は、内務省の赤木氏の執務室であった。
「赤木先生の信念としては予算を取らなきゃいけない。ところがそういう、なんていいますか、支援団体がないわけですよね。そこで赤木先生は、非常に苦手な、本来もう、自分は本当は心臓が非常に弱いんであると。ああいう政治的動きは一番苦手だと、あれが一番嫌いなんだと言っておられたけれども、予算を取るという信念をもってすると、どうしても後援団体を作らなきゃいけない」(矢野館長)
また、貴族院、衆議院議員に対する働きかけも積極的に行った。砂防事業の確立に大きな力があったのは、昭和十三年に内務大臣に就任した末次信正海軍大将である。赤木氏は、末次大臣とともに山梨県の砂防事業、茨城県土浦、神戸市の豪雨災害被災地を視察。熱心に砂防事業の必要性を説いた。
「やっぱり、軍人さんってのはわかりが早いんですよ。神戸はとにかく、海まで土砂で埋った直後ですからね。道路も鉄道も全部泥の下ですから、それを見るとね、これはいかんてわけですよ。これはなんとかしなきゃいかん、どうしたらいんだと。すると赤木先生が六甲は非常な禿げ山であって、ふだんでも土砂が出てくる。豪雨があるとこのとおりです。これは何とか砂防で治めないと、いくら下で治水工事をやってもダメですといったら、非常によくわかってくれたわけですよね」(矢野館長)
そして、この末次大臣の尽力により、砂防予算が大幅に増額されただけでなく、砂防を専門とする第三技術課の新設が決まったのである。初代第三技術課長は、もちろん赤木氏であった。
砂防事業への愛情が生んだ、酒嫌いの「伝説」
自らが苦手な政治力を発揮して、死に物狂いで獲得した予算である。その予算が無駄に使われることはどうしても許せなかった。赤木氏が酒を飲めず、地方に出張した際の宴席を嫌ったという「伝説」があるが、実は飲めなかったわけではないのだという。
「いま官官接待ってやつがやかましいけども、あの頃はもう、内務省から課長が行かれるとかいうことになりますとね、どこでも一席設けるわけです。しかし、赤木先生はその費用が無駄だってわけですよ。そういう金があったら、当然工事費に使うべきであると。ところが、そこまでは言えなかったわけですな、さすがにね。で、自分で覚悟してね、自分はとにかくそういう席へ行っても酒は飲まないと。接待されても酒は口にしないという決心をしたんですよ。
だから、酒を飲めないんじゃなくて、ビールをひっかけたり、気分のいいときちょっと晩酌やるかっていうような程度の酒は嗜む方だったですけどね。正月なんか行くと、酒飲んだんですよね。ところが歓待というか接待というか、そういう席では絶対に酒は飲まなかった。だからもう、酒は飲めない人で通っちゃったんですね」(矢野館長)
現場第一主義を貫く赤木氏は、出張に行くと必ず現場におもむいた。自らリュックを背負い、登山靴をはきピッケルをついてどこへでもいく。もちろん宴席での酒は断わるが、それでも疲れたときには晩酌の一杯も欲しくなる。そんなとき、教え子たちを誘って「ちょっと一杯やるか」となるのだという。
「だけど、改まったところでは、知事さんの招待でも何でも絶対に杯は手に取らない。そういう信念を通された人ですよね」(矢野館長)
もちろん、工事など予算執行の面でも無駄づかいを嫌った。全国の県から設計書をすべて取り寄せ、一つ一つ赤鉛筆で修正を入れた。もっとも効率的な設計施工を行うために、すべてに目を通さなければ気がすまなかったのである。
「俺が命懸けで金獲ってきたのが、つまらんことに使われたんじゃもう、死んでも死にきれない。だからもう、必ず現場行くんですよ。その名残がまだ残ってましてね。建設省で設計認可と称して設計書を全部検討して条件つけて。赤木先生のやりかたが、残ってるわけです(笑)」(矢野館長)
京都帝大で見せた、学者としての内気な素顔
矢野館長が赤木氏に出会ったのは、京都大学時代。赤木氏自身は東大出身だが、大正十四年京都帝国大学に農学部が誕生した際、農林工学科を設けてそのなかに砂防工学の講座を作ったのは赤木氏なのだという。
赤木氏は、大正十五年から昭和二十年まで毎年二週間京都に滞在し、砂防工学の特別講義を行った。つまり矢野館長は、京都帝国大学で赤木氏の教え子に当たるわけだ。
「そのときは、八時だったか九時だったか、早かったですよとにかく。それで第一時限から三時ごろまで、ぶっ続けで講義が続きます。学生は一人か二人なんですよ、砂防を専攻するというのが。
赤木先生は入ってきて、全然こっちのほう見ないんです(笑)。いきなり黒板の前に来まして、それでドイツ語でね、砂防工学の講義を黒板に書かれるわけですよ、でーっと。一言もしゃべらないで。そして、あのころは上げ下げの黒板でしてね、上のやつを下げて、そこに書いていく。その次今度下のやつを消して、またそいつに書いていく。そいつがぶっ続けですから、こっちはたいへんなんですよね。
とにかく、下を向いたままで講義されましてね、人なんか見ないという(笑)。
要するになんというのかな、ある意味では非常に内気だったんでしょうね。
赤木先生のほうは、砂防工学というものを全部教えたい。だから、時間があまりないということで一所懸命急がれるわけですな。そういう面ではね、あとで非常に政治的に働かれたけれども、学究的というか、そんな面があったんですね」(矢野館長)
局内の軋轢が生んだ、砂防事業の後退
末次大臣のもと、順調に発展への道を歩みだしたかにみえた砂防事業はしかし、赤木氏のいわば強引なやりかたへの反発もあって土木局内で軋轢を引き起こす。
土木局から国土局への組織変更に伴い、砂防を所管する第三技術課を廃止して、砂防を河川課の所管に移すことが決まったのは昭和十六年のことである。こうしてわずか三年で第三技術課は消滅した。
「この機構改革は局長、技監等が国土計画に借名して第三技術課を廃止しようとする意図に出たことは余りにも明らかであり、又一般技術官の好感を買わんがために従来事務官が占めていた道路、港湾両課長の位置を技術官に移したに過ぎなかった」(『砂防一路』)
つまり、砂防と河川の対立はのっぴきならないところにまで至っており、農学士たる赤木氏は、河川事業を含む工学士連合軍に敗れたわけである。そして、ことは第三技術課の廃止に留まらなかった。
「内務省の土木局としては困るわけですな、赤木先生みたいなのがおると。しかも一人でなんかこう、混ぜっ返しとると。協調してくれないと。土木局長のいうこと聞かんで勝手に砂防、砂防といって走り回ってると。まことにはや困るから、あれはもうやめさせようということで、首になったわけです。
自分がやめては日本の砂防は闇だという信念があるもんだから、いろいろ抵抗されたらしいけど、結局、事を荒立てて免職というようなことになっちゃまずいから、ここはあっさりやめてくださいといわれて身を引いて、それから砂防協会の常務理事ということに専念されたんです」(矢野館長)
そして終戦後の昭和二十一年、吉田茂首相の推薦で貴族院議員に勅選。だが、このときもすんなり決まったわけではなかった。内務技術官の間から、砂防関係の元内務官僚だけが勅選されるのは不公平だから、河川、港湾関係の人材も勅選して欲しい。もしそれがだめなら赤木氏の勅選も保留してくれという声が上がったのだ。
だが、この声を受けた時の内務大臣は、「閣議で総理自ら話し出されたこと」だとして一蹴し、赤木氏の貴族院議員就任が決まった。
「吉田首相が出てきて、赤木先生を勅選でもって貴族院議員にしようということで、とうとう政治家になっちゃった(笑)」
その後、翌二十二年には貴族院が廃止され、それにともなって行われた参議院議員選挙の全国区に吉田茂の自由党から立候補して当選。翌二十三年には建設政務次官に就任し、二十五年の選挙でも再選される。
「それから九年目の選挙のときに、地方区から出なさいと、自民党から言われたわけ。地元の豊岡から出れば、確実だと。ところが赤木先生どうしても全国区から出るといって、それで落っこっちゃった」(矢野館長)
「SABO」を国際語に押し上げたできごと
終戦直後、日本政府はGHQの同意なしには何も政策を決定できない状態にあった。砂防事業も、もちろん例外ではない。GHQ指令部が政策の可否の基準にしたのが、コストパフォーマンス。つまり、費用対効果を数値で示せというのだ。しかし、砂防事業の効果を数値化するのは難しい。しかも当時、砂防を含めた河川政策を決定する立場にあった経済安定本部の計画課には、河川関係技術官だけが配属され砂防技術官はいなかった。
そこで、砂防事業に対して論議された費用対効果とは、次のようなものだ。
砂防ダムを造ると、土砂が貯留する。もし、ダムがなければ下流に流れた土砂を掘削しなければならず、その掘削費用が砂防ダムの経済効果である。確かに砂防事業の効果を数値化するのは難しいが、それにしても杜撰な理論である。
「ところが、赤木先生は気に入らないわけだ。そんなもんじゃないんだ。おまえたち何を言ってるか、とんでもねえ話だ(笑)。
また、そうなんですよね。そんなことしたら算盤あわないんです。むしろ、砂はたまることにおいて砂防の効果があるんで、掘るというのはごく特殊な状態なんですね。だから、そんなものは話が違うっていう。結局現場を知らないからそういう論が出てくるんだ。机の上で算盤ばっかりやってるからそういうことになるんだと。で、赤木先生は参議院議員ですからね。進駐軍の方にも一生懸命説明に行ったわけです」(矢野館長)
昭和二十六年、アメリカのトルーマン大統領直属のワルター・C・ローダーミルク最高技術委員会会長が、日本の治水事業の視察のため来日した。当時参議院建設委員長を務めていた赤木氏は、たびたび同氏と会見。砂防事業の重要性とその効果を訴えた。
「ローダーミルクは、利根川の水系を主体として調査していったんですね。そのとき赤木先生が案内して、砂防をこんこんと説明したわけです。日本は特別ですって言って。それで、ずいぶんよくわかってくれて、なるほど砂防っていうのはそういうもんかと。決して山だけのものじゃなくて、水を治めるにも砂防ってのは役に立つんだ。ところがつい、海岸にも砂防がありますってなこといったら、それがみんな砂防かと。そうだ、というと感心してね。うーん、簡単に『砂防』という言葉でもってそれだけの広いことが包含されるなら、えらい便利なもんだからいいじゃないか。私は今度ウィーンの学会に行くから、『砂防』というのをひとつ世界語として通用するよう提唱しよう、って帰ってったんです。
そこで、今みんな喜んでね、公認か非公認か知らんけどもとにかく『SABO』『SABO』でがんばっている。事の起こりは、こうです」(矢野館長)
現場は百人百色、マニュアルではわからない
「赤木先生はたいしたもんなんですよ。とにかく、全部現場に連れて行って説得してしまう。それです。見なきゃわからんと。いくら口で説明してもわからんと。見ればわかる。だから、災害のあとでは必ず見に行ってました。
ところが今はその志と反しましてね、とにかく現場ってものは見ないんですよね。現場に行かないです。とにかく、県の土木の人ってのは何をするかというと、測量は測量会社に頼みます。設計は設計会社に頼みます。で、施工は請負が請け負ったら責任施工される。全然現場いかないもの。現場知らないんですよ。
昔は内務省に採用されると、大学出もみんな現場に配置されて、三年くらいは現場でコンクリート練ってくる。直轄というのは直営工事なんです。自分で人夫集めて、自分で仕事やったんですよ。だから、地下足袋はいて、セメントの切りスコップもって、セメント練りからやるわけです。水配合なんてのは、人夫たちは切るとき水が多いほうがいいもんだから、じゃぶじゃぶ水かけるわけですよ。だから、セメントと砂と計って入れて、あとは水は厳重なる計算量だけ入れる(笑)。そうすると切りにくいんです。そいつを、何をこんなもんってやってみせるわけです。
私たちのときまでは自転車で、現場までいったんです。見張り小屋に自転車預けて、あとは歩いて。ところが、いまは自動車の行けるところじゃないと行かない。それから先は行かない。だから自動車のいくところへ現場を作る。本末転倒です、これはね。そんなところよかもっと上のほうが大事だと言っても、行かないもの。
赤木先生をもってすれば、もう悲憤慷慨ですよ。
余談になるけれども、河川局のほうで、こんどコンクリートを使わない河川工事をやるとか言い出しましたね。
だけど、本筋はやっぱり、赤木先生じゃないけれども、砂防というものはそんな生易しいものじゃありませんよと。とにかく、土石流が直撃してくる。要するにそういう自然の力に対してどうやって対処するかというと、一番いいのは身をかわすこと。柳に風と受け流すこと。これが治水の要締です。とにかく力で逆らうのは一番悪い方法だ。
ところが砂防だけは、力と力でぶつかるよかしょうがないんですよ、これ。だからどうしてもでかいダムでもってデンとぶつかって、土石流に力で対抗していくよりしょうがない。生半可なものじゃ、ダメなんですよ。だから、自然にやさしいなんていっちゃおれないんだ本当は。ところが流行になると自然にやさしいなんてことをいう。自然がやさしくないのに、砂防だけやさしくしたって、そんなものなんにもならない。
そういうことで、とにかく砂防ダムというのは力と力でぶつからなきゃしょうがない。しかも日本の地勢からいってすごい急流でもってぶつかってくるところを、力でもってがんばっていこうというと、どうしても無理がいくし、たいへんだし、工夫がいるわけです。
それには赤木先生は、現場を見ろと。全部違うんだと。マニュアルじゃねえんだと。ここでいいから全部通用するというようなことはないと。百か所あったらやりかたは百か所全部違うんだ。だからそれには現場を見て、どういう状態でその川が荒れてるのか、的確にそいつを見て、水源まで上がっていけと。で水源を見て、どういう状態かということを見極めれば、砂の出方がどの程度のものかということがわかるはずだ。するとそれに対処した工法が必ず出てくると。それが赤木先生の信念です。
ところが、今そういうことがどうも薄くなってる。それは赤木先生の志に反してると思いますよ。
ダムを作ると、高いほうがいいような気がして、砂防ダムでもむやみに高いもの作りたがる。ただ赤木先生はあれは嫌いだったんです、本当は。便法としては、発電ダムまで作ったちゃったけれども、本当はもっとやさしく、やわらかく、砂防で復旧していく。いっぺんにダーンとやると、必ず反動が来ると。だから徐々に受けては放し、受けては放す。そういうのが砂防の本質であるというのが信念だったんです。
ところが今は、そういうことを受け継ぐ人がいなくなっちゃった。で、時勢は自動車が通るとこしかいかなくなっちゃった。しかも、自分ではやらないと。全部分割して出すと。それは赤木先生が一番嘆くことでしょうな」(矢野館長)
昭和29年(当時参議院議員)、宮城県視察時。写真提供:宮城県
信念の人、赤木正雄
「赤木先生は、建設省だけじゃなくて、各県の砂防はみんな自分のもんだと思ってるんです。いやいや、怖くはないです。わりかた好々爺ですよ、機嫌のいいときはね。だけど時々機嫌が悪くなる。『ふーん』といったときは困ったね。なんでこんなことをしたっていうふうになってきて、これはおかしいというときは、もうダメです。『建設省の認可によりまして』なんていうと、『だれがそんなバカなことをした』なんていわれてね(笑)。
ただ、赤木先生の自慢は、八十過ぎても、本当に八十三ぐらいのときにですから、静岡の現場を見にいかれましたからね。自分はこの歳になっても現場を見にいくんだと、そういっておられましたからね。
とにかく赤木先生は信念でもってそういう自分の主張、主義ってものを通された。だから妥協ってものを絶対しない。ところが今は、世の中変わってきたんですね。時勢っていうものが。赤木先生の流儀では通らなくなってきた。
そこが問題なんですけどね。ただ、いまだに砂防というものはあんまりわかられてないんです。名前がね、砂防といったってなんのことか知らない人多い。そうすると、砂防をPRするということはやっぱり大事なことなんですね。ことに日本の砂防は外国とは違う。日本独特の砂防なんです。七世紀から始まった治山治水、治水の根本は治山にあるという、その考え方が日本の砂防の世界と違うところなんですね。そこのところをよく理解して、PRしていかなければいけない。
赤木先生の根本はやっぱり、極端に自然の状態を変えるような大堰堤は砂防としてはうまくないという思想です。それから、木を植えなきゃいけないと。山に木を植えるということが砂防の基本になると、そういう思想でしたけれども、建設省である限りはそうはいかないんですな。
建設省の人に木を植えろいっても、やりかた知らんから無理なんですよね。そのために砂防を専攻した学士が建設省に入ってるんだけれども、建設省に入ると染まってしまって、今さら木を植える話をしたって、これが専門ですっていっても通用しない。
だから、結局偉人のあとはだめですよ。その人はだんだん光を増していくけども、あとに続かなきゃね。ただやりかたが、赤木先生のは赤木流だから。そのあと引き継いで、そのようにやっていくっていうのは、これはまた、そういう人でなきゃ、そういう人物でなきゃ、ふつうではできない。やっぱり、まねはダメです。やっぱり信念の問題です。あれだけの信念はありませんよね、今は。というと怒られるかもしれませんけど。
赤木先生は、本当に信念の人でした」(矢野館長)
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